先輩からの手紙(1/2)(追記・修正2014.4.29


http://gsg48566.hatenablog.com/entry/2013/06/11/175029

 


私が20代前半(1970年代後半)に出会い、その後の私自身の考え方に大きく影響を与えた人物がいます。仮に「A先輩」としておきます。その方とは、毎年年賀状のやり取りをしていましたが、ある年の年賀状をきっかけに、私が短い質問の手紙を送りました。それに対して、A先輩から便せん約40枚の長文の手紙をいただきました。1998年のことです。


(A先輩は、その年、肺結核のため逝去されました。)


手紙は、個人的なものではありますが、内容としては多くの人に知っていただきたい部分があると思い、「先輩からの手紙」として、公開いたします。その要旨内容は以下のとおりです。

(2回に分けて投稿します。個人的な部分については省略しています。)


(追記・修正2014.4.29



 前略、年賀状での一方的な申し出に、早速に答えていただき本当にありがごとうざいました。


 


貴君の文章を読ませて頂いて、改めてここ(あしかけ)十年の変化の激しさを思わずにはいられませんでした。


時代の変化もさることながら、学会の中も、相当に一般活動家の中に不満がたまり、求心力を失い、崩壊を食い止めるのに精いっぱいのように見受けられます。


そして、それ以上に小生自身は変化したのかもしれません。


 


貴君の指摘されるように、脳科学、心理学は極めて有効だと思います。それ等の他にも、生物学の分野の最近の展開には目を見張るものがあります。免疫理論の成果も実に示唆に富んでいますし、サル学の長年の蓄積も人間の能力についての従来の神話を打ち壊してくれます。これらの様々な学問領域が相互に交流しながら、所謂「生命学」といえるものを生み出し始めたと明確に言える状況です。


 


仏教についての理解も、河合隼雄さんの「ユング心理学と仏教」や養老猛司さんの諸著作を読むと実に的確に深い理解がされるようになったと思いますし、分子生物学者の柳沢桂子さんの著作などでも「空」の理解など、実にきちんと捉えています。そして、多分、これ等の傾向を代表するものとしてトランスパーソナル心理学のメンバーを挙げることができようかと思います。


仏教の側にも、中村元さんを中心とする東方学院のメンバーや唯識とトランスパーソナル心理学を融合させようとする岡野守也の著作や内観療法のグループ、森田療法の後継者のグループなど様々な取り組みが見られます。


 


このような動きを見ていますと極めて近い将来、宗派や教団の壁は言うに及ばず、(イスラム圏やヒンズーの動き等は少々予測不可能な面がありますが)東西の文化的差異が急速に縮小して高度に機械文明、物質文明を発展させた結果生じてきている「人類共通の課題」として人間の脳の持つやっかいな側面を正面から問題として採り上げる総合人間学という領域が誕生してくるものと思います。

 


その総合人間学の共通のテーマは、


       過剰の中で暴走する人間の脳のバーチャル性にどう歯止めをかけ、正気の状態を取り戻していけるのか。

(環境や食糧、人口問題などの制約を思考の中で検証できる、個々の脳の成熟を如何に図っていくのか、と言い換えられるでしょうか)


       仏教でいえば、十界論に代表される境涯の問題や宿業の問題、心理学でいえば、深層心理や無意識の問題。


それの形成にかかわるトラウマの問題を始めとする家族関係のあり様。


精神分析でいえば集団無意識や神話の及ぼす影響、等々。


人間の認識と価値判断や行動が如何に揺れ動き易く、偏頗なものになり勝ちであるかを正確に評価したうえで、如何に正鵠を得た認識を共有しうるのかという認識形成とその教育の問題。


        共感とか、喜びとか、希望とか、人間及び(多分、動植物を含めた様々の生命体が内包しているであろう)生命の持つ溌溂とした状態と、それと正反対の硬直や死をもたらすものへの多角的なアプローチ。


        個性というものへの多角的アプローチ。(生命の持つ個性化指向)


 このようなことが、現在、小生の頭には浮かんできます。


 無論、これ以外にも、身体論、技術論、都市化の問題および巨大組織、巨大機構の問題とそれに伴う情報社会化の問題などが考えられますが、取り敢えず問題を拡大する方向よりは、一個の人間の脳の成熟をどう図っていくのかを中心に置いてもらいたいものだという小生自身の願望があるのです。


 さて、このように考え続けて、かなりの年月が経ちましたから、もはや学会とは、はるかに離れた地点にきてしまったのだと思います。聖教も大白も、友人宅や実家にたまに行ったときに眼にする位で十五年位は読んでいないのではないかと思います。それでも従来の人間関係が様々にありますし、一般紙の情報でも大体その動きは掴んでいるつもりですが、もうほとんど興味も関心も薄れました。


そして、特にここ四、五年前から「創価学会運動の歴史的使命は終えた。人格の成熟という仏教本来の目指したものから論ずれば完全に道を外れてしまったし、どうやら始めから理解していなかったようだ」と思うようになってきまして、特にこの一,二年で最終的な見極めをし、結論を公に身近な人から伝えるようにしています。


そこら辺の問題点をどう考えるか。仏教自体に問題があるのか。組織原理に問題があるのか。組織を構成している個々の信仰姿勢に問題があるのか。大作さんへの個人崇拝がもたらした歪みか。官僚化したところに問題の根があるのか。政治に進出したことが誤りではなかったか。


夫々にそうだといえる部分も含みながら、必ずしもそれだけではない、もっと根本的な問題を探求・模索しての二十数年だったと思います。


断片的なことは周囲の人に話してはいましたが、ことが個々の人にとって人生の根幹にかかわる信仰の問題であるが故に、こちらが本当に整理しきり、いささかもゆるがせにしない確信に到達しない限りは公言してはならないと自分自身を諫めてきました。


途中である程度の態度表明は、様々な事件についての感想・意見を求められればその都度、明確に行って、去る人は去ってもらうようにしてきましたし、組織に対しても、十数年前に、自分自身は一切活動と係わらないということはきちんと伝え、新聞等も断ってきたことは、先程述べたとおりです。


ここら辺の問題についてのことは、同封しました別紙コピーを読んでいただければ概要ご理解願えるかとは思いますが、以下少々その要点を述べてみたいと思います。


 先程「四、五年前から」と申し上げました。正確には、もっと以前から度々口にしていましたが、個人的に□□の問題や、古くからの友人たちの言動の中に、「大人になっていない身勝手さや利用しようとする姿勢」を目の前に露わに見てしまって、本当に危機感を持ちました。


また、五年前にフロンの回収を政府に働きかける運動にタッチして公明党(当時)の議員の実態を知ったり、○○県に来て(中略)地方議員に対して何らの教育も政策研修も統一的な政策指示もない実情を見聞きして唖然とした(公明が地方議会に進出して以来、四十年近くにもなると思います。)こと。


地方の学会員の信仰レベルがほとんど迷信に近いものであることを知ったこと、等がそれに重なって、結局、生命の尊厳とかなんとかいっても、それは常にスローガンだけで全く内容が伴わないことを延々とやってきたのだ。


人間革命といっても、お題目だけで「自分自身を観つめること」をいくら教えても、ほとんどの人が他力本願的お頼み信心に陥っていることを、嫌というほど思い知らされたことがきっかけでした。


 一体、そのような「大人になれない他力本願的姿勢」はどこに起因するのか。


それは、多くの人と様々話し合ってみて「内外相対」の内道とは何かを全く理解していないことであろうと気づきました。


「内道とは仏教のこと」と言うだけで、外道に対してどこがどう勝れているのかがよく解らない。


「生命の内に、幸不幸の原因を求めたこと」とは言うのですが、その意味するところを具体的に聞くとほとんど答えられません。


その不幸の原因とは「煩悩」を指すのだといった上で、煩悩=見思惑について聞くと、教授という肩書を持っているメンバーの誰も(私の周辺では)答えられません。「煩悩即菩提」だから、欲望を断ち切る必要がないのだといった理解で、そのコトの重大さを考えたこともないようです。


このような安易な理解ですましていますから「苦・無常・無我」の三法印についても、「常・楽・我・浄」と大聖人はいっている、程度のことで済ませ、三法印が仏教の根幹中の根幹であるということさえも理解していません。


三法印がそれほど重要なものであることが理解されていませんから「苦・集・滅・道」の四諦も、そして動諦である八正道が、戒定慧の三学であることも知らない。三学を「仏家の軌則」と位置づけられていることがよくわかっていないから、肝心の三大秘法の何たるかをきちんと理解していません。特に定(禅定)=本門の本尊、慧(智慧)=本門の題目ということの意味が全くわかっておりません。


 


このような、最も根本的なところが理解できてない上で御本尊をまつり、勤行・唱題をしていたのでは、自然自然に御本尊を物神化して、題目を呪文の如く、不思議パワーの源の如く、それを唱えると奇跡が起こるかの如くに捉えてしまう他力本願的、迷信的信仰に陥ってしまうのだと思います。


驚くべきことに、以上述べた四諦・八正道・三学・三大秘法という筋道を宗門側も、学会側も、ほとんど理解していなかったのではないかと思います。


 


「よくわかる仏教用語」を書いた時に、「御本尊は禅定の指標」と言った意味を、当時は、ほとんど理解しなかったようです。約十年を経た現在、はたしてどのような理解でいるのか。一部若手の教学部メンバーが原始仏教以来の思想的な流れを理解し始めているようでもありますし、この間に、三枝充悳さんの「仏教入門」(岩波新書)や「バウッダ」(小学館ライブラリー)を初めとして仏教関係の入門書が講談新書など続々と出版されてきていますから、急速に理解は進んでいるのかもしれません。


それにしても、「よくわかる仏教用語」の執筆依頼が、S氏が「空」については解らない、書けないといって逃げたので、小生のほうにお鉢が回ってきたものでしたから、まあ推して知るべしだろうと思います。(試みに、本部職員として飯を食っている幹部に問いただしてみて下さい。彼等は、本質的には僧侶と同じ立場でプロでなければならない訳ですから、きちんと知っていなければある意味詐欺です。)


 


結局、煩悩論を掘り下げて理解していなかったところに、またほとんどパスしてしまったところに、学会が外道と変わらなくなってしまった原因があると思います。


ただ、そこに、大聖人の仏法があり、御書があり、御本尊があるから、紛らわしいことになっているだけで、本山や身延なども皆同じでしょうが、教祖(宗祖)信仰に陥っていて、日本仏教界全体がほとんど外道と同然だと思います。その意味では、折伏活動が、ほとんど意味をなさなかったといってもよいと思います。対立し、攻撃していたようでも、同じ穴のムジナにならざるを得なかった。それ程に、大乗仏教の流れを受けて導入した時から、鎮護国家、現世利益的色彩で受け留められていた日本仏教の体質の毒が強いのだということもできようかと思います。


日蓮仏法は、その歪みを正そうと格闘したものであったはずでしょうが、その鎮護国家、現世利益の大枠を完全には脱しきれなかったと評価することが出来ようかと思います。


 


さてそこで、原始仏教及び仏教思想史全般を再検討して評価し直すとしたらどのように位置づけられるのかということに移ります。


エーリッヒ・フロムが、仏教を評して「膨大できわめて複雑で洗練された心理学を持っている」(『人生と愛』)といっていますが、まぎれもなく、実践論(修行論)を持った心理学、人間学と位置づけることができると思います。


 


そして、その中心をなすものが煩悩論であり、縁起論であり、無我論であり、そこから発展肉付けされていった空論や八識論。最終的に総合体系化した三諦論及び一念三千論であると思います。


十界論を考えてみても、その出発点には煩悩を貧・瞋・痴・慢・疑と観つめたシビアーな人間認識があった・・・とは直ちに理解して頂けると思います。そしてまた、その様な醜く、愚かな生命状態を生み出す根源に、「我執、我所有」があることを見抜いたことこそ、釈迦の出発点であり、仏教の出発点であったわけです。


このようにみてきますと仏教は、人間をきわめて脱線しやすく、危なっかしい存在として捉えていたことがわかります。しかし、それと同時に常に自分自身を検証、反省し、自ら軌道修正していくことの出来る主体性を持った存在としても捉えています。この善にも悪にも仏にも悪魔にもなり得る可能性を秘めた存在として人間を把握していたということは、一念三千・性悪性善という表現にある如く、仏教に一貫して流れている人間観であるということができます。そして、この人間認識こそが、今日の危機状況の中で、仏教が高く、再評価される要因であろうと思います。


ただ、我執の持つ恐ろしさに着目した仏教も、その我執が生じてくる基盤としての家族の人間関係の歪みを指摘しなかったという点は注意しておかなければならないことであろうと思います。多分にその原因は、食べることに精一杯で、子育てなどにはとても注意を払っていられないという時代の大勢があったのであろうことは間違いないことであると思います。何せ「子供」の発見は、近世になってからのことである訳ですから、産んだ後は、自然に放っておいても育つ位の感覚で子供は子供の世界を作っていたのだろうと思います。


 


この(セルフコントロール主体になり得る人間という相対的人間観)観点に立って、仏教を読み直してみますと、「仏教的人格の成熟、智の成熟を目指す人間学である」という基本的な性格が浮かび上がってくるものと思います。


原始仏教経典には明確に、「人格の完成を遂げた者」と釈尊を表現していますし、「般若波羅密」も「智慧の完成」の意でもあり、「南無妙法蓮華経」が戒定慧の「慧」に当たるということも、御義口伝や、一生成仏抄等々の「南無」「妙法」「蓮華」「経」の解釈を読んだ時に、仏教の根幹である三法印や縁起の思想の発展したものであるということがよく理解されて、自然に了解出来るものであろうと思います。


もう一度整理して繰り返しますと、「人間の自己修正能力に信を置いた上で、人間が我執や我所有の想念に捕らわれた時には極めて愚かで、醜い、時には悪魔的にもなり得る存在であり、常に注意して自身を省み、自ずから気づいてコントロール、軌道修正をしながら、最終的に人格の完成、智慧の完成を目指すべきだと説いたのが仏教である」ということが出来ようかと思います。


この相対的人間観、自我への警戒心というものを失ってしまったならば、仏教とは似ても似つかぬ歪んだものになってしまいます。


私達は、ここ二十世紀という時代に、人間の安易な自己肯定や、自己正当化が、如何に狂気や災厄を引き起こすかということを繰り返し見せつけられてきました。再度の世界大戦や植民地の独立戦争、ソ連や中国、そして東欧、北鮮では、現在も続く、一党独裁や個人崇拝。その原因や内情を探っていった時に、権力とそれを支える者達の自己正当化と病的な我執が浮かびあがってきます。


現在の日本の混迷を見ても、人間が年齢とともに成熟し、人格も立派になっていくなどという素朴な神話(信仰)は、吹きとんでしまいます。権力や金力を過剰に手にした時、人間は自身に対する警戒心が薄れ、安易な自己肯定を繰り返して、みるみる内に退化・退行してしまうということがよくわかります。正に老醜無残。知識も、少しばかりの教養も何の役にも立たないことを露呈しています。


そして、そのような退行をもたらす原因の一つに、会長や社長といった組織の中心者に傷を負わせまいとする個人崇拝的忠誠心があることも、この一連の銀行・証券・大企業の総会屋との癒着事件の中で指摘されました。裸の王様なのに、組織のシンボルとして担いでいる手前、誰もそれを指摘しない。影に回ればいろいろ言っていても、皆で虚構を作り上げていく。そして神話化し、集団として危ない橋を渡りだす。オウムの事件を見てもその構図が明らかになったのですが、企業や他の新宗教も含め、残念ながら学会も、日本のムラ社会的組織構造は、どうもこのような旧態依然たる忠誠心を核とした仲間内意識で動いていて、法秩序や公共心や、一般構成員や普通の人々のことは全く眼中にないように思えます。(まして環境なぞは)


忠誠心というのは本質的に畜生界ですから、上下関係や親分子分関係とか、ボスの命令には命をかけて従うとか、自分がどこに位置を占めれるか、どう評価され、どうランクづけされるかといったことだけが最大の関心事になり、力信仰、暴力信仰、金力・権力信仰に陥ります。是非善悪の観念が乏しくなり、優しさとかおだやかさとか思いやりとかが欠落していきます。争いを求め、常に敵を求め、悪ふざけや勝負ごとが好まれます。派閥を作り、人事が大好きで、陰口や告口や噂話に血道を挙げます。騒々しく、片時も落ち着いていることができずに、動き回り、いじくり回します。その癖、見通しが利かず、臆病で、いつも他人の反応を伺い続けます。実に厄介な代物ですが、三悪道四悪趣の五濁悪世の姿なのですから、当然と言えば当然すぎるのかもしれません。


「我が己心を観じて十法界を観る」ために、曼荼羅本尊を顕わされた大聖人の信徒であるならば、この現在日本社会の本質と、自分自身の置かれている状況、自分自身の生命の傾向性に気づかなければならないところだと思います。


自分を観つめるというそこのところが、きちんと入信以来教えられずに来てしまって、体験重視、活動重視できてしまっているために、もうほとんどの会員も、幹部や執行部自身も、全くわからなくなって、グチャグチャになっているのが実情であろうと思います。


そして、組織優先、成果主義、数の論理が大勢を占めてしまって、ある意味での会員搾取がまかり通っているというのが本当のところではないのでしょうか。


(中略)


ハッキリと言います。現在の学会活動をやめろとまでは言いませんが、別にしてもしなくても、罰もなければ、御利益があるのでもありません。福運が消えるわけでも、福運がついてくるのでもありません。そのような自分の生命外から何か幸運や不運がやってくると考えるのは、あまりにも人生に対する姿勢が消極的、受動的であると言わざるを得ません。


(中略)


敏感に自分の周囲で起こっていることを(自分自身の内面も含めて)気づいていく。そしてその本質を見究めて、早目、早目に対処していく。その注意深さと、対処の適格さが、回りを安心させ、伸び伸びとさせ、和やかで活気に満ちた雰囲気を作っていくのです。そこに、皆が元気に育ち、前向きで生きていく活力が生まれ、それが更に大きな人間関係の輪に拡がって・・・・という良い循環が生じてくるのです。それを福運というのであって、何時間唱題すれば幾らといった形のある福運などはないのです。


罰は反対に、細かいことを無視し、鈍感で不注意で、不用心の言動が、回りを傷つけ、他人に不快感を引き起こし、信頼を失わせ・・・という悪循環をいうのですから、最終的に自身の思考回路を成熟させていく以外にないのです。


よく勉強し、物事の成り立ちや由来をよく知り、よく気が付き、配慮が行き届き、実行力や実現力も備わっていく。そのように自分が責任を持ち、自分が矢面に立って、自分を訓練し、自分を育てながら、思考回路の成熟を遂げていく努力を重ねるしかないのです。


謙虚であり、慎重であり、注意深さを持ちながらも、一つ一つの日常の様々を積極的に楽しんでいく、そのような快活さを合わせ持って、なおかつ頼りがいがあれば、人は自然に集まってきますし、おのずと人生も開けてくるものと思います。


そのような、個人における日常的努力が積もり積もって、回り回って社会の質を上げ、住みよく、心楽しい人生を個々にもたらしていくのが本当であって、個人の家庭生活がムチャクチャになってしまうような労働や活動は、基本的に反社会的であり、悪であるのです。


その上で、一人では生きていけないのもまた社会的動物としての人間ですから、お互いに助けあい、スクラムを組んで、よい社会にしていくように共同歩調も取っていく。


しかし、どこまでいっても、個人の成長と満足が根本になければ、どんな努力も砂上の楼閣になってしまい、疲労感と虚無感だけが残ります。


ミヒャエル・エンデの童話『モモ』(岩波少年少女文庫)に「時間泥棒」の話がでてきますが、小生はこの本を読んだ時に痛撃なさショックを受けました。別紙コピーにも書きましたが、本当に心豊かな時間を大切にするしかないと思います。アクセクと物や金を追うことを、餓鬼界と見極め、受験競争や出世争いを畜生界と見限り、そのような外面的なものにエネルギーを費やすことなく、本当に質の高い知識、心から感動させてくれる芸術や映像に接し、明確な問題意識と経験を豊富に積み重ねることによって、真の思考回路の成熟と人格の完成を目指す生き方に軌道修正すべきであろうと思います。


 


(中略)


 


一九九八(H10)年三月九日』


《次回の『別紙コピー』へつづく》


【参考】(追記2014.4.29


    「先輩からの手紙(2/2)」 ・・・次回の『別紙コピー』の部分です。


     A先輩が雑誌『第三文明』に書いたものの抜粋です。


    「よくわかる仏法用語」


    A先輩との思い出を書いた記事です。


    「先輩からの手紙・・・A先輩」


    「先輩からの手紙・・・A先輩(続)」


    「先輩からの手紙・・・A先輩からの年賀状」


 小野不一さんのブログ「斧節」で、この「先輩からの手紙」を取り上げていただきました。感謝いたします。手紙の内容を深く的確に捉えていただき、非常に参考になります。



http://gsg48566.hatenablog.com/entry/2013/06/12/130223


先輩からの手紙(2/2) - ガラガラポン日記


直ちに送ろうと思って、ワープロで打ってもらったものを点検しておりましたら、間違いや抜け落ちた部分など、とても一読意味が通じるという状態ではありませんでしたので、「第三文明」掲載分のコピーと照らし合わせて訂正作業をしておりました。意外に時間をとってしまい二部共にやろうと思いましたが、手抜きをさせていただきます。(御夫婦でジャンケンでもして、お一人は自分で修正して下さい)それにしても、先日は、本当にお世話になり、有難うございました。そしてまた、やっと本音で様々な問題点を話し合うことができたことを喜んでおります。それだけ状況が急速に変化したということでしょう。

八十九年一月号で終わりましたが、一月号の発刊はその前月の一二月。原稿締め切りは十一月初め。従って想い返すのは、八十九年からのことになります。



Mailから再転載したもの


2013-06-12

先輩からの手紙(2/2)

 先輩からの手紙

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先輩からの手紙(1/2)に書いてあった『別紙コピー』です。

知人にあてた手紙のコピーです。個人名は記載されていません。

一部省略しているところがあります。

 


『(別紙コピー)


前略。


 


 早いもので、先日お邪魔してから、もう半月が経ってしまいました。


 


直ちに送ろうと思って、ワープロで打ってもらったものを点検しておりましたら、間違いや抜け落ちた部分など、とても一読意味が通じるという状態ではありませんでしたので、「第三文明」掲載分のコピーと照らし合わせて訂正作業をしておりました。意外に時間をとってしまい二部共にやろうと思いましたが、手抜きをさせていただきます。(御夫婦でジャンケンでもして、お一人は自分で修正して下さい)それにしても、先日は、本当にお世話になり、有難うございました。そしてまた、やっと本音で様々な問題点を話し合うことができたことを喜んでおります。それだけ状況が急速に変化したということでしょう。


訂正作業をしていて、この約十年のことを種々想い返しておりました。


八十九年一月号で終わりましたが、一月号の発刊はその前月の一二月。原稿締め切りは十一月初め。従って想い返すのは、八十九年からのことになります。


八十九年一月は、昭和天皇の死がありました。


そして、二月に大葬の儀。この時、聖教新聞の一面に全面を使って載った名誉会長名での「追悼の辞」。そして葬儀の時の公明党議員の神道儀式への参加。(社会党等はその間会場の外にいました。)


私は、この新聞の内容と、神道儀式への参加を見て、(ああ、学会は本当に変質したのだ)と痛感しました。「牧口会長を獄死させ、戸田二代会長を入獄させ、日本を敗戦に導いたものは、天皇を現人神と敬った神道であった」と言って出発した戦後の創価学会の歩みは、一体何であったのか。「立正安国」を掲げ邪義邪宗こそが不幸の原因であるとして、大折伏戦をしたことは、一体どんな意味があったのか。そのことへの説明、言及は一言もなく、七〇年の「言論出版問題」の総括や反省もないままに、世論に押されて路線変更を強いられたその泥縄的体質が、遂にここまで来たのかとの強い印象を受けました。


 


「歴史」を無視するものは、「歴史」によって、シッペ返しを受けるというのが鉄則だと思います。第二次大戦敗戦後の日本が、その歴史的行為の反省もないままに、経済復興だけを図り、敗戦後半世紀を経た今日でもなお、その過去の行為の清算をしない上に、更にその醜悪な過去を隠蔽しょうと様々な馬鹿な画策をする。そしてそれが世界の人々の顰蹙を買い、多くの国民が恥ずかしい思いをし、結果として国民道義が頽廃したまま、更にそれが進行してしまう。「ごめんなさい。本当に迷惑をかけてしまった。ここの所を間違ってしまったから、以後絶対そうならないようにきちっと対策をこのようにとりました。」ということでないと、また同じ誤りを繰り返してしまいます。


 


今日の日本の様々の問題の噴出と多くの国民の閉塞感は、この戦争への無反省と、戦後の出発に当たって、短絡的な過去の否定によって、過去の日本人の美徳(礼儀正しさとか、恥ずかしいという感覚、隣近所、他人様に迷惑をかけないようにするという心掛けや、繊細な美意識に基づく潔さ、強い独立心等々)をあっさり捨て去り、公共心をほとんど失ったところに、可成大きな原因を求めることができると思います。


 


その意味では、日本全体が、未だに戦争の後遺症を抱え込んでいる状態だと思いますし、新たな国民道義、市民の社会意識の確立までには、まだまだ、二、三世代以上の歳月がかかると思います。戦争によって失われるものは。単に国民の生命や財産だけでなく、精神的なプライドや道義心といったものまでが破壊され、失われてしまい、その国民的トラウマ(精神的外傷)から立ち直るまでには、二世代、三世代とかかってしまうものであるということを、決して忘れてはならないと思うのです。


 


学会も、この日本的健忘症、日本的ご都合主義の埒外にはないということなのでしょう。そしてまた、その学会のリーダー達は、大正から昭和の戦前世代です。激動の時代の中で、価値観がコロコロ変わるという経験を強いられた世代の人達なのです。信念とか、哲学、深い思想性を本当の意味で身に着ける経験を持ち得なかった人々なのです。これは、今の日本の各界の指導者たちにも共通するもので、無理もないと言えば無理もないのです。しかし、やはりその様な覚悟の定まらない、深い思想性もないリーダーによって、運動なり、政治なりが指導されていくというのは、実に不幸なことですし、悲しい、そして迷惑なことでしかありません。


 


平成になってからは、バブルの崩壊、政界の再編成、野党連合政権誕生、55年体制の崩壊、自、社、さ政権へと目まぐるしく動き、その間にさんざん反対してきた小選挙区制導入への加担、新進党への参加。そして次から次へと続く贈収賄汚職。政も官も財も、そして薬害エイズに見られるように学も、従来権威と見なされ、それなりの尊敬を受けてきた立場の人々が、情報公開の波に洗われて、その醜悪な実像を徐々に現わしてきた十年であったと言えましょう。


 


学会もまた、多分、先程もふれた昭和41年の言論出版問題で始まった、迷走、混迷、目標喪失が、89年の現実妥協路線表明で更に加速し、とうとう、組織の生き残り、既得権益の温存を計る事態にまで凋落してきた十年であったと言えるかもしれません。


 


その間、ゴミの山から見つかった謎の三億円金庫事件、ルノアールの絵をめぐっての不透明な三十数億円にのぼる三菱商事や画廊との取り引き、証券会社との利益保証事件での登場、オウム真理教事件で法改正がなされた、宗教法人法をめぐっての佼成会などとの共同歩調。等々。ほとんど既成宗教のゴタゴタとなんら変わることのない内部矛盾のボロが、次々に露呈してきた歳月でもありました。その他、実態のよくわからない本山との対立、名誉会長をめぐる様々な裁判事件・・・。ヤレヤレ・・・というところです。


大聖人が現在、御生存であったら、この事態をどう評価されるでしょうか。


 


このような大人たちの混迷ぶりに軌を合わせるようにして、オウム事件、幼女連続殺人の宮崎勤、小中高生のいじめ自殺事件の多発、少年達のおやじ襲撃事件や通り魔事件の続発。そして、神戸の小学生連続殺人事件と、次々に若者や子供たちが社会の精神の荒廃を証明するような事件・事故を引き起こし、または、その被害者になる事態が続いています。


 


一体、私達は、何の為に、身を粉にして活動をしてきたのかと、思わずにはいられません。


「道理・証文よりも現証を先とすべし」と御書で御教示の如く、まず否応なく目前に提示された現証に基づいて、私達は道を間違ったと率直に認める必要があると思います。


 


今回、久し振りに約十年前の自身の原稿を読んでいて「何故まともな反応がないのか」と当時嫌気がさしてきた気分を思い出していました。若い読者の一部から、熱烈な感想が寄せられたり、当時男子部の教学室員のメンバーで、今は教学部の中心メンバーの数人から「やっと戒というものが解った」という感想があったことを聞かされたりはしていましたが「信仰論」ともいうべき部分には全くナシのつぶてであったことを思い出しました。そして現在になって、それが無理からぬことと思い至る心持ちです。


 


先日も少々お話しましたように、大部分の人達は、別に大聖人様でも、御本尊でも、御書でも、もっと言えば、弘教なんてどうでも良いのでしょう。要するに「宗教は儲かる」、「大教団は大変なメリットがある」ということであって、また一般の会員も、もう互助会みたいなもので、「何もないよりは気休めになる」「ヒョッとして何か御利益があるかもしれない」「さぼっていて何かあったら困るから」等々の程度のもので、もう本当に日本的信仰になりきってしまっていると思います。


日本人の宗教的態度は、そもそも神代の時代から、聖徳太子によって仏教を導入した後も「現世利益」が最大のテーマであって、原理原則などどうでも良いところがあるのです。


 


大聖人の時代には、その原理に対する不誠実さが厳しく弾劾されますが、室町、安土、江戸と社会の経済的な豊かさが実現されてくるにつれ、そのような厳しさが薄れ、信長の既成仏教大弾圧(比叡山焼き討ち、石山本願寺攻撃)に続く、秀吉、家康の日蓮宗弾圧やキリスト教禁圧などによって、徹底的に宗教的生命(信仰の純粋さ、真剣さ)が失われ、気休めと軽い現世利益と、葬式仏教へという長い惰性に陥ってきたのです。数世紀に亘って民族の習慣・習俗として根深く定着してしまった信仰態度は、第二次大戦の敗戦後のような貧・病・争の盛んな時期には一時的に燃えあがることはあっても、社会が安定し、経済的にも恵まれてくると、たちまち、元の木阿弥に戻ってしまうというのが現状のように思われます。


 


創価学会も、戦後の大衆運動としても盛り上がりから、同一のものとは思えない形骸化状態となってしまった本当の理由も、案外こんな日本的宗教態度の為せるわざかもしれません。


このように考えてきますとこれからは宗教的熱狂の再現はしばらく(ほとんど?)あり得ないのではないでしょうか。むしろ浅薄なムード的熱狂が去った今日、本当にその思想的・哲学的な意味と内容が問われてくるのだと思います。


 


そして、その厳しい問いかけの中で、真に人類の福利に貢献出来る存在へと脱皮していけるか、それとも既成の諸宗派のように、社会に寄生する存在として、既得権益を守り続け乍らなんとか生きのびるのか、それとも、内紛と分裂を繰り返しながら、夫々にオカルト的小集団へと雲散霧消していってしまうのか、これから十年位の内にその方向はかなりはっきりしてくると思っています。


 


そしてその動向選択の底流をなすものは、結局日本の国民全体が、ボーダレス化する国際社会の中で、どのようなアイデンティティを選択していくのかということだろうと思います。


現在の日本の社会は、一部の指導的立場の人間が旗振りをして、国民の行くべき方向を指し示せる状況にはありません。まだまだ自覚と自信が確立した状況とは言えないまでも、既に名もない一般の人々が、自分自身と指導層との距離のなさを実感し始め、中には、指導層などというものは幻想でしかないと思い始めている人々が生まれてきているように思います。


 


その動きは、全国各地で自立的に、町作り、地域おこしをしている人々の中に見出せるものと思います。彼らの動きは、戦前から戦後にかけての労働運動のような異議申し立ての運動ではなく(不平等とパイの配分をめぐる争い)また60年から70年にかけての学生運動にみられる権威打ち壊し運動でも、またその生き残りのメンバーの環境運動を看板にした別天地創造運動でもなく、もっと等身大で、生活に根を下ろした快適空間創造運動とでも名づけたい、非常にセンス溢れる柔らかい発想の運動を起こす人々があちらこちらに生まれてきているのです。しかも彼等の良いところは、


①自分自身が面白がってやっていく、変な使命感や悲愴感など全くないということ。


②大変に現実的で、合理的思考をもっていて、臨機応変、自在な知恵で、大資本や行政権力など当てにしないという点。


③高い教養や知識をもっていて、外国や異文化との交流経験も豊富で、幅広い人脈を持っている点等々が挙げられると思います。


 


豊かな社会がもたらした新しいタイプの人間群であろうと思います。


 


その様な人々が、今は個々バラバラのように見えますが、現在のような情報化の時代ですから、あっという間にネットワークを結んで、かなり近い将来、大きなウネリを起こすのではないかと私は予測もし、それ以上に期待しています。


そしてまた、宗教、思想、哲学の分野でもこの二、三十年の間に、明らかにボーダレス化しあらゆる領域が「生命」及び「生命現象(死も含めて)」をターゲットとして「人間」とは何かに迫りつつあります。


 


恐らく、これも割合に近い将来、先日も話しました「センサー付きの対応の智慧ないしエネルギー」というような生命自身の持つ(能)力をキーワードにして、人間の頭の持つバーチャル性というやっかいな能力にどう歯止めをかけ、どうコントロールしていくべきかというようなことが、各学問各領域を統合するような形で方法論として確立されてくるのではないかと予測し、これもまた多いに期待しているとこです。


 


その時に仏教=人間学という評価が定まりセルフコントロール法として「一念三千論」が、人間の知的、人格的成熟論の角度を含み乍ら社会に定着していくのではないかと思います。それが本当に人類の知的共有財産として、各国の教育の基礎として定着した時、それを広宣流布というのだと私は考えています。


 


権力奪取とか、勢力拡大などというのは、考えてみれば幼稚な発想で、境涯論でいえば、「生死の世界を現実世界であると執着している凡夫」の世界、即ち六道輪廻の世界であって、なかんずく対立や勢力争いをしていたのでは修羅畜生の境涯でしかあり得ません。


 


総合学としての「人間学」が打ち立てられれば、宗教宗派の必要性は消滅します。


そうならければ、ますます狭くなり、ボーダレス化していく地球で、人類は生き残れないと思います。


 


いずれにせよ、私達自身、もう一度発想を新たにして、スローガンを叫んでいれば事足れりとするような惰性を排して、中身の伴った、豊かで心楽しい人生と社会を実現していくように、真剣に、かつ具体的に努力を始めようではありませんか。


 


随分と長くなりましたが、久し振りに自分の書いたものを読んで、それに触発され乍ら、現在の心境を書き連ねてみました。



1997(H9) / 8 / 23