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〝今朝、「ともだち」投稿を閲覧していたら畏友というか尊敬する先輩・友岡雅哉さんが、拙レーベル『 瞽女うた 』二作を例に引きながら傾聴に価する深遠な哲学的考察を投稿されていて大いに頷く。友岡さんは大阪大学大学院・インド哲学専攻。サンスクリット語で書かれた仏典を原語でスラスラ読めるというすごいお人。とても浅学非才のわたしなどのおよぶ範疇ではない。早速、ご投稿をシェアさせていただくべく試みたが何故かできず。誠に勝手ながら無断コピペして以下掲載させていただいた(乞うご海容のほどを)。蛇足ながら末尾にわたしの拙いコメントも付す。(神谷)〟


【宿命という妄想】


一年前の投稿です。


過去の宿業とかいうときの、現在の「結果」って、体が不自由であるとか、貧困だとか、とても、世間的な問題だと思いませんか。過去の宿業の結果、あんなに人をさげすむ金持ちになったとかなら、まだ分かります。何で、金持ちが上なん? ばりばり世法やん。第一、ゴータマ・ブッダの出家(出世間)の理由というのは、「人は病む、老いる、死ぬ、にもかかわらず、病むこと、老いること、死ぬことを嫌悪するあまり、病人、老人、死者を嫌悪し、差別する。私は、そこに、健康の傲慢、若さの傲慢、生きていることの傲慢を見た。そういう社会は生きにくい」というものでしたよね。宿業論というのは、仏教を世法に堕落させるものなんです。体が不自由な人が、また経済的に大変な人が、尊厳を奪われることなく、生きていける社会を作るほうが、仏教らしいと思いませんか?その人の自己責任とするのは、「社会」を変えられたら困る人たちの、詭弁ですね。


瞽女縁起 宿命という妄想からの解放


みなさん、瞽女さん知ってますか?

目が不自由で、手取り(先頭を歩く、目が見える少女)につかまりながら、毎日、40キロ、50キロと歩き、村々、町々で、歌を歌っていった、女性芸能者です。特に、雪国で、両方ががけ道などを、数人で、歩いていきました。20年ほど前までは、存在しておりました。10年ほどまえ、友人が、新潟県の二組の瞽女のCDを出しましたが。その瞽女さんたちが、大事にしている「瞽女縁起」というのがあります。「瞽女」という存在がどのように生まれたのかが、伝承されたものです。そこでは、平安時代にそのルーツがさかのぼられます。そのころ、仏教の思想がかなりゆがんでいて、目が不自由に生まれたことは、前世の宿業だと思われていました。それは、キリスト教の「ヨハネ福音書」にでてくる、当時のユダヤ教の考え方と同じですね。三世の生命とか、因果論というのは、「仏教思想」の卓越性でもなんでもなくて、世界宗教が、それまでの世間の差別性、偏狭性を打ち破るときに、その「壁」として立ち現れて来るものなのです。「ヨハネ福音書」第九で、イエスは、この人が目が不自由なのは、世間でいうような過去世の宿業とかではなくて、神が、私たちの心を試すために遣わされた神の使いである、と語られるわけです。さて、「瞽女縁起」では、当時、目が不自由なのは、過去世の宿業、特に、仏典、特に『法華経』を軽んじたための、報いであると思われていました。それで、ある目が不自由な少女が、将来について悲観していると、どの寺社も、えらい人たちも、それは、過去世の宿業だから、もっともっと祈りなさい!と、言うわけです。娘さんも、ご家族も絶望的になるのですが、ある夜、全員が同じ夢をみるわけです。観音菩薩が夢のなかに現れ、「そんなの気にすることないよ。あなたは、家に閉じこもらずに、町に出て行きなさい。そして、芸を磨き、それを元として、町で生きていき、同じようなことで苦しむ人たちに、芸の道をひらいていきなさい」それで、瞽女という存在ができたのだという伝承です。今から考えても、とても示唆的です。社会性というのが、とても大事であるということとか。

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〈以下・拙文〉

 友岡さん、ご高説、まったく同感です。この国に千年覆う「宿命」の呪縛から即刻、意識を変革し身体を解放することの重要性をひしひしと痛感しました。本論の主旨とやや異なるところで愚考をすこしだけ。それは差別を媒介してたちあらわれる「聖」と「俗」という概念についてです。「聖」は常に世法に塗れて堕落していくもの、「俗」は世法に渦巻く煩悩を濾過(あるいは肯定)しながら輝いてゆく、ときに「差別」を大きなバネにして。そこに「聖」と「俗」、下降と上昇のパラドクスを読み取ることができます。がしかし、アプリオリな「聖」などというものが一体この世に存在するものでありましょうか。世俗に糞塗れに塗れて「聖」あるいは全円の「彼岸」ヘと到る、それが人間本来のありようなのではあるまいか、そう思えてなりません。大事なのは個別人間の生き様であって、世襲相続や制度によって保証されたり守られる「聖」というのは一体何か。きらびやかな法衣を纏い権威を笠に着ても断じてそこに人間の尊厳はありません。ただただ、俗悪以外の何ものでもない。「聖職」という、そもそも神仏への奉仕をメシのタネにすること自体が間違いの元ではないのか。不勉強ながら古今東西、「差別」を生産し、繰り返し再生産する「聖」と「俗」の二元論にわたしはそんなささやかな疑念を抱くものです。また、古代・中世では身障者や芸能者はマレビト=神の遣いとして敬われてきたという歴史的事実があります。近世においても芸能者は身分制度の最下層に置かれながらも常人たちからは異界からのメッセンジャーとして畏怖されてきた、蔑まれながらも敬われる対象であったわけです。そこに成熟した人間社会を認めるのは果たして穿ちすぎでしょうか。差別がピラミッド型に整除されるのは却って近代に属するように思われます。上御一人から下万民に至る近代天皇制のヒエラルキー。だとすればいにしえから「河原乞食」と蔑まれてきた芸能者の末裔たちは、世の差別を解消することより、むしろ差別の奈落に太々と居直り、須く被差別の彼岸から此岸(世界)を厳しく睨み返すべきではありますまいか。極論かもしれませんが、「差別」の位相からはしんじつ世の中が透き通って見えます。我田引水してわたしの専門分野である世界の大衆音楽の呂律に耳を傾ければ、それはより一層明瞭です。ブルーズ然り、ジャズ然り、サンバ然り、サルサ然り、瞽女唄然り、沖縄島うた然り。そう、差別こそが大衆の心の琴線に強く深く共鳴する哀切な調べと同時に、大地を揺るがす強靭なビートをも生み出す原動力なのであります。まさに釈迦に説法ですが、法華経・従地涌出品第十五に説かれる無数の地湧の菩薩とその眷属が舞い踊りながら大地を叩き割って地下から湧き出た譬喩は民衆の時代の到来を告げ知らせて感動的であり、あまりに示唆的です。それはすぐれて20世紀の戦争と革命の谷間から世界の大衆音楽が生まれ落ちたことをも見透かす鋭い炯眼に基づく現代史的予言たり得ています。門外漢はこれ以上多くの知識と言葉を持ち得ません。とまれ、大衆音楽の基底部は西洋クラシック音楽のようにけっして上に向かって堕落せず〈まぁ、実際にはちょこちょこチョンボもしますけど、そこは庶民大衆、俗の俗たる所以ということで)、奈落の底に居直り、きっと綺麗な花を咲かせるでしょう。わたしたちが棲むこの娑婆世界こそが常寂光土なのですから。