日蓮仏法2.0

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現在進行中の教学の議論に、HNSkyClear氏が次の三つの立場を整理してくれています。

(1)従来の学会教学(201411月以前)

(2)日蓮仏法2.0

(3)宮田学説

の三説を整理していただき、ありがとうございました。

主に(2)に関する特徴の記述で、気になった点についてだけ回答します。


>日蓮仏法2.0様の主張は、文底仏法は堅持しながらも、「本仏とは凡夫」であり、「日蓮大聖人は久遠の本仏ではない」との主張から全てが始まっていると考えます。<

・・・ 違います。

私の出発点は、大聖人が一切衆生皆成仏道のための仏法を提唱したという認識です。

まさに、凡夫が即身成仏しながら、一生成仏していく成仏観です。

ちなみに、XXX氏が指摘するような煩瑣な天台流の議論も、勝手な文底を持ち出す拗れた日寛教学のような議論もしていません。

非常に素直で明晰な論理展開を目指しています。


そのために、拙書の第三部では、大聖人が若いころから十界互具の即身成仏観に注目し、それをさらに一念三千論で固めた経緯を記述しています。

そこで私の結論としては、十界互具・一念三千・即身成仏を末法の成仏三大原理と呼んでいます。

これは南無妙法蓮華経・唱題行の実践に他なりません。


この立場から見ると、大聖人の本地を久遠元初自受用報身如来とする「日蓮久遠本仏論」は矛盾するので、これは全面的に否定しています。


この大聖人だけを神格化し特殊化する考え方に対して、私は、まさしく『法華経の智慧』で先生が

「「久遠元初」とは「無始無終の生命」の異名です。時間論ではなく、生命論です。」と仰る普遍化の方向を支持し、継承しています。

つまり、永遠の仏界・仏性であれば万人に開かれています。

これは一切衆生皆成仏道のための仏法を提唱した大聖人の立場と整合性を持ちます。


>一見すると「従来の日蓮本仏の学会教学」の上に、「凡夫こそ本仏」を強調した論であるとの印象を受けますが、実は「日蓮本仏」を否定した上での「凡夫本仏」だと考えます。<

・・・ 違います。

上述のように、「日蓮本仏論」ではなく、「日蓮久遠本仏論」だけを否定しています。

したがって、「末法の御本仏」という表現は、限定的に容認しています。

つまり、久遠元初と無関係に、唱題行を提唱した大聖人が三徳具備の下種仏法・本因妙の教主であるのは当然だと考えています。

が、それも凡夫即仏の意味で人間・日蓮のことです。

その意味では「日蓮凡夫本仏論」です。

だからこそ、私たちも自行化他の題目を通して、地涌の菩薩として大聖人に直結します。

親分子分の関係はあるとしても、本質的には皆が凡夫即仏の菩薩仏です。


「凡夫本仏」について、もう少し説明する必要がありそうです。

>凡夫本仏論での「本仏」は「迹仏」に対する用法に由来しているのだと思いますが、この認識は正しいでしょうか?<

・・・ 若干違います。

日本語の「本仏」を英語や独語に訳そうとすると、その意味の違いに注意せざるをえません。

一応の区別ということで整理してみます。

1 諸法実相抄の迹仏に対する本仏は True Buddha、これは月と水面に映る影のように、

仮の実体のない迹仏に対し、実在する真の仏。これは生身の凡夫です。

2 久遠の本仏は Original Buddha、つまり根本的な仏。この場合、三世諸仏は

その根源的な源泉から発出するという発想です。

3 権仏に対する本仏は Provisional Buddhaに対する Essential Buddhaでしょうか。

これは本門(Essential Teaching)と迹門(Theoreticall Teaching)の区別に近く、また「理」の一念三千と「事」の一念三千の区別にも相当します。


凡夫本仏論は1で、日蓮久遠本仏論では2の意味で使用されているはずです。

そこで、「末法の本仏」と言う場合は前者に相当します。これは投影された諸仏に対する批判的立場となります。

それで、実体のある成仏とは何かという問いがあれば、1の他に3の視点も意味を持ってきます。

2については、人ではなく法を表にします。

その本因下種の妙法を実践する処に、人法一如となります。


>多くの学会員が、「本仏」に関しては「主師親」や「仏の十号」で述べられているところの「仏」のイメージを有していると私は感じます。<

このイメージは興味深いですね。

だから、>「凡夫こそ本仏」と言われると、「自分が救済者・師匠になる」<と勘違いすることになるのでしょうか。


また、>「私が本仏だ」<とか>嫌いな人物・・・も本仏」だという素直に宣言できず、抵抗感が生じているのではないでしょうか?<

・・・これもまったくの誤解です。

凡夫本仏論とは、凡夫の身に仏界が湧現することです。

その仏界が生命力や知恵や勇気や希望や喜びとして現実生活に作用します。

価値創造の人生です。

これは皆さんがずっと日常的に体験してきていることです。

何も奇異なことを主張していません。


ご指摘してくださった引用がその意味です。

>日蓮仏法2.0でいう「本仏」の定義は「『本仏』とは実在する人間に仏性が現成すること」(凡夫即身成仏論 99頁)とあります。<


凡夫本仏は、凡夫そのままで本仏という意味ではありません。

それは悪しき現状肯定の本覚思想です。

凡夫本仏論は妙法の実践による仏界湧現を前提にしています。


>一般的な感覚では、「皆が仏なんだから・・・」とは思えても、「皆が本仏なんだから・・・」という感覚は、仮に正しいとは分かっていても、感情的には修行が必要だと思います。

「皆が仏」と「皆が本仏」の両者は似ているようですが、意味が違ってきます。読んだ方が抵抗感を感じるのは、このようなことなのではないでしょうか?<

・・・先述のように、この「本仏」の意味は実在できる成仏の姿を意味しています。


歴史上の釈尊も凡夫の身で悟りを開いたわけですが、後に超能力を持つスーパーブッダに仕立て上げられてしまいました。大日如来や西方浄土の阿弥陀仏などもその投影です。

実在しません。

その意味では、大聖人も久遠実成の釈尊を再往、つまり文底の立場からは、「我等が釈尊は・・・」と私たちの生命に内在する仏性・仏界と解釈しています。

これは池田先生の場合も同様で、「久遠元初とは・・・生命論です」という再往の視点があります。


>「従来の学会教学」とは、・・・ 日蓮大聖人を主師親の仏として、凡夫の成仏を目的とする本仏観と考えています。<

・・・ 違います。

日寛教学を基礎にしていた昔の学会教学は、インターネットで検索してヒットした次の冨士大石寺顕正会の【勤行】の御観念文と同様です。

「南無本門寿量品の観心、文底秘沈の大法、本地難思境地冥合、久遠元初自受用報身如来の御当体、事の一念三千、無作本有、人法体一、南無本門戒壇の大御本尊、御威光倍増御利益広大御報恩謝徳の御為に。」

「南無久遠元初の自受用報身、無作の三身、本因妙の教主、末法下種の主師親、大慈大悲、南無日蓮大聖人御威光倍増御利益広大御報恩謝徳の御為に」

この考え方では「凡夫の成仏を目的とする本仏観」には絶対になりません。

信仰の方向性がまったく異なっています。


久遠元初自受用報身如来=人法一箇の大御本尊。

人に約すと、本因妙の教主=上行再誕=末法下種の主師親三徳具備の日蓮大聖人=末法の本仏。


つまり日寛教学では日蓮久遠本仏論と大御本尊信仰がセットになっています。

その意味で「日蓮本仏」について語るのは正宗教学の枠内となります。

宗祖崇拝信仰の一形態です。

先に若い世代の方が私の主張を正しく理解してくれていたような、

自己実現型成仏観にはなりません。


先に無冠さんが引用してくれた戸田先生の言葉です。

末法の我らと縁のないもので、我々凡夫(ぼんぷ)自身が、近因近果の理法をたたき破って自然(じねん)の仏身を開覚(かいかく)する法がただいまでは必要でありますが、この必要に応じられて実際生活に過去世からの運命をたたき破り、よき運命への展開の法をたてられたのは日蓮大聖人様でいらせられる。・・・ すなわち帰依(きえ)して南無妙法蓮華経と唱えたてまつることが、よりよき運命への転換の方法であります。この方法によって途中の因果がみな消え去って、久遠の凡夫が出現するのであります。


そして、これが池田先生の言葉です。

◆ 「仏とは人間」「人間こそ仏」

 そもそも日蓮大聖人の戦いも、ある面から言えば、『仏教を人間化する』戦いであられたと拝される。人間の実生活から遊離していた仏教を、人間の手に取り戻し、現実の生活法として教えられた。

 「仏とは、人間(凡夫)である」「人間(凡夫)こそ、仏である」

 こう叫ばれた。

 当時、日本でも、阿弥陀仏とか、大日如来とか、「仏」を遠い、超越的なものとして説く仏教が流行

していた。

また法華経での仏も、一般には、人間とはかけ離れた存在としてとらえられていた。

それらを大聖人は逆転された。

 「日蓮本仏論」の思想的な意義も、ひとつには『仏教の人間化』にあったと拝される。

 妙法を信じ、行じる「人間」こそが、「仏」だということである。妙法の「信心」にこそ「仏界」はあるということである。


その意味では、西山論文で指摘されているように、

私は代々の会長の、日寛教学の傍らに常に鼓動し脈打っていたSGの根本理念を継承しようとしているだけです。

少し体系的に整理して論理展開しているだけのようです。