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「発迹顕本」

  投稿者:アルベアメール 
 投稿日:2015年 6月18日(木)04時59分57秒   通報
「発迹顕本」とは覚醒であり悟ることである。「迷うを凡夫悟を仏という」。
しかし「悟る」ことに関心がいかない。「悟りたい」との求道心が希薄である。いや無いに等しい。
どうしてか、

思い込み、刷り込まれた思考のなせる働き作用が硬直化し、
思考がエゴと癒着し意識を制限しているからである。

自身の意識を制限しているのは、自身の中に在る「怒り」の感情である。
その感情が、今の自身の思考パターンとして外界に「言葉」「文字」となって現れているのだ。

愚考の特徴は、

あらゆる現象を「問題視」するだけで騒ぎ立てることである。
(左脳的)

信心して○○年、十界論・九識論等、言葉は知っても「理」であり「事」には非ず、

言葉で、活字で読んでも、
自己都合の解釈、思考の中に居続ける、
いつしか視野狭窄の症状化した中で悩み苦しみ、宿命転換と思い込む、

この繰り返しの○○年、すべては自己都合の選択結果なのだ。

視野狭窄は情報狭窄でもある。

心身の不適応、高齢の両親、わからずやの我が息子・娘、全てが愚考の結果なのだ。

うつ病・摂食障害・パニック障害・ストレス性障害・ひきこもり等、世間と変わらぬ現象である。

こうした現象は、東洋医学・仏教医学からみると、意識の使い方を知らないゆえの心身の不適応反応状態なのだ。

意識の使い方を知らぬゆえのすべての現象なのだ。

「身口意の三業で読む」とは「思考」ではない。「意識感覚で読む事」なのだ。

しかし、この「意識感覚」がわからない。

地球上ではアフリカ大陸の一部の部族、南北アメリカの一部の種族には「意識感覚」が「中心核」となって生活が営まれているのがあるが、

現代人のほとんどは思考感覚が優位となり形状記憶されている。

意識の持つ「自由感覚」体感・体験を意識して学ぶ、自得する時期にきている。

このことを「目覚め」「覚醒」の時期という。

思い込み大好き人間は思考上「発迹顕本」という。

師弟不二を唾を飛ばし叫ぶ、そして、何も変わらない、変えられない、知識の片よりにより盲目状態にあることに気づけない。

彼らの世界は外界の現象に注意が常に向くように社会文化的に条件づけられているからだ。

「意識」そのもの、働き作用に注意が向かないから様々な現象が起きている、起きてくるのだ。

腐敗と堕落の構図は、地球上のあらゆる集団にみられる現象である。

視野狭窄状況の中で「多様性」といいながら「閉塞状況にある現実」

なすすべがないことに気づけない、気づかない。

誰が、どうして、こうして、こうなった。だから何?だからどうするの?わからないのだ。

「自分自身が変われば変わる」と言われてきているが、いつ、どのように変わるのか?

内的な自己追及、自己言及なき者は常に外界に関心が向き、一喜一憂し時間を過ごしているだけである。

意識の覚醒・目覚めは「俯瞰的眼差し」を得ることとなる。

学会的に言うならば「身口意」の三
業による事象の読み込みである。

例:「法華経の智慧」を身読すること(身口意の三業・左脳的な読み方ではない)

牧口先生・戸田先生・池田先生を仰ぎ、弟子と言うならば、

「法華経の智慧」の身読を、それが自身の「発迹顕本」となるのかもしれない、創価学会の「発迹顕本」となる。

言葉で知っていても体感・体験が無い。体感・体験しょうとも思わない。思いだけの世界に留まっている。

「発迹顕本」がもたらされたら「どうなるか」わからないまま続くのだ。

それも選択している事実である。創立以来のキーワード「発迹顕本」いまだに同じことを繰り返している。

何百万人の諸先輩たちが言っていた、何かあるたびに言っていた「発迹顕本」、

ひとりよがりの思い込み信心がそうさせていることに気づけないままに旅立っている。

地球の「発迹顕本」地球の「覚醒」が、あるのか、わからないのだ。

今「先生が不在だ」だから、弟子の道を歩む、何をすると、どうすることが弟子の道なのか?

「弟子の道」には1000万人の道がある。多様性の世界だから、いろいろあっていい・・・・

それも個人の信心、まあいいか、
「平等であり、差別がある」このことが三千羅列であり、個人の選択なのだ。

自身の選択に「覚醒」ということを選択すれば「わかる事」を選択することに気づけないから、このまま今日も明日も続く・・・・

ここまでは、従来型の思考世界のお話、